ひとりでいるしあわせ

ひとりで何かをすることに無上の喜びを感じる そんな内向型な私の一人行動の記録

2017年 わたし

 

ひとりでいることに幸せを感じながら、

 

人に寂しい人と思われるのではないか、と人の目を気にしていたるわたしがいた。

 

それは、「ひとりでいることは寂しい」という概念がわたしにあるからにほかならない。

 

わたしは、本当に人の目が気になる。

 

だから、人もわたしを気にしていると思ってしまう。

 

それが、自意識過剰で、人はそこまでわたしのことを見ていない、と理屈の上で分かっていても、

 

わたしのかけているめがねで世界をみるとどうしてもそうなってしまう。

 

わたしが今思うのは、

 

本当はそうなのにそれに気づかなかっただけで、

 

きっと、ずーっとそうやって生きてきたのだろう。

 

そう考えると、今までの理由の説明できない行きづらさが理解できるような気がする。

 

記憶にある頃から、すみっこに行きたかったわたし。

 

人から離れて一人で何かをしているわたし。

 

そんなわたしは何か変だと思っていた。

 

でも

 

それがデフォルトだったのでは?

 

と、当たり前のようで当たり前でないようで、とにかく今まで思ったことないことを今日、思った。

 

事実がひっくり返ると、

 

「ひとりでいた変なわたし」は、

 

「ひとりでいたかったからひとりでいただけのわたし」になる。

 

ひとりでいると「友達がいない」と思われる。

 

「友達」は多ければ多いほどいい。

 

こういう強い概念がわたしにあった。

 

積極的に、しっかり、皆と同じように、上を目指して、

 

オールマイティーな人間になって、

 

親からはそんなメッセージをふんだんに受け取った。

 

それに合わせるよう自分を奮い立たせ、明るくて立派な人と思ってもらえるよう一生懸命演じてきた若き日々。

 

でも、理想の明るくて立派な人には、ぜんぜん辿りつけない。

 

それはそうだろう。

 

だって、わたしの辿りつくところはどうやらそこではないらしいのだから。

 

今、わたしの見ている場所は、

 

明るい人を目指していた時と真逆の場所である。

 

真逆の場所は、一昔前の私だったら鼻で笑って毛嫌いしていたような場所。

 

それが今、

 

そこにいるとわたしは本当に落ち着くのだ。

 

そこはプライドもいらない、人の目もない、わたしだけの空間

 

ここはきっと私の内的世界。

 

そして今のわたしの外的世界は、真逆の行き方をしてきた関係で、

 

わたしが落ち着かない環境に身を寄せている。

 

落ち着かない人間関係、落ち着かない仕事関係。

 

どれもこれもどうもしっくりこなくて、

 

そのたびに外界を責める日々。

 

そして、その責めている自分に嫌悪を抱く。

 

今、はっきりわかることは、当たり前だけど外界が悪いわけではない、ということ。

 

わたしが、わたしについて理解不足だったために、

 

わたしが適応できない環境に身を置いて、できもしない人付き合いを目指してきた結果だ。

 

そして、今回はこの扉も開いた。

 

それは、

 

両親も合わないことだってある、という事実。

 

外界と同じで、両親が間違っているわけではない。

 

わたしが間違っているわけではない。

 

ただ、合わないだけなのだ。

 

合わない親の真似をして一生懸命生きることは

 

自分の人生の本線を逆走しているのと同じこと。

 

ある意味、両親や自分が大事だと思っていた人を見切ることは、

 

今までの

 

生き方の

 

全否定。

 

でも、勇気を持って捨てることで、

 

古いわたしは死に

 

新しいわたしに生まれ変われる。